比企一族の悲劇を伝える串引沼の伝説
大谷とは文字通り大きい谷を表す。大谷地区を東から西へ南北に分ける川岸道(県道福田・吹上線)が通る。この道に沿って東西に丘陵が走り、南北に大小の谷が切り込み、その奥にため池がつくられいわゆる谷津田が発達している。
大谷地区のため池で最大のものが比企の尼にかかわる伝説で有名な串引沼(古名:奇比企沼)だ。その伝説から紹介しよう。埼玉県が1953(昭和28)年にまとめた『武蔵国郡村誌』中の「比企郡村誌」にはこうある。
「その昔、比丘尼山(びくにやま)の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていた若狭の局が、祖母の比企禅尼の勧めで、心の迷いを取り去るために、鎌倉より持参して肌身離さず持っていた夫頼家の鎌倉彫の櫛を捨てようと心に誓い、夜の明け染めた早朝、朝の勤行を済ませ、祖母と二人連れだってこの串引沼に行き、形見の櫛を投げ入れました。櫛は沼底深く沈んでゆきました。時は元久二年(1205年)七月、夫頼家の命日に当たる日であったといいます」
鎌倉幕府を開いた源頼朝は平治の乱で平家に敗れた源義家の息子で、一族のものはほとんど討たれたが助命され伊豆に流罪となっていた時期がある。そのとき20年余にわたって頼朝に食料などを送り続け援助したのが頼朝の乳母だった比企禅尼をはじめとする比企一族だった。
頼朝の息子・頼家は比企能員の娘・若狭と結ばれ、嫡男一幡と姫君竹の御所が生まれた。二代将軍となった頼家は、北条氏の専横を憎み、その勢力をそごうとしたため、北条氏の恨みを買い、重臣会議制(「鎌倉殿の13人」)が布かれ、将軍の権力は大幅にそがれ、頼家に味方した比企一族は滅ぼされてしまう。そこで生まれたのがこの伝説だ。 東松山の郷土史研究者の利根川俊吾さんは「悲運の比企一族」(まつやま書房『東松山の地名と歴史』所収)にこう書いている。「若狭の局が、鎌倉の囲を破って逃れてくるのは不可能であろうが、しかし、若く美しい若狭の局を死なせたくなかった里人の、愛情から生まれた伝説であろう。」大谷の里の人びとの気持ちはよくわかる。

日本農業遺産のため池農法
ところで大谷地区には16のため池があり、お隣の滑川町を中心に熊谷市と比企郡では二百数十ものそれがあるという。いずれも大きな川のない丘陵地の間の水田への水の供給の難しい地域に発達している。このため池が2023年に日本農業遺産に認定された。その特徴は以下のようだ。
【ため池農法の概要】
- 丘陵地で形成された谷状の「谷津地形」を生かしてため池が作られている
- ため池は「天水」と呼ぶ雨水だけを水源としている
- 稲作に使われており、貴重な生態系も維持されている
- 起源は古墳時代にさかのぼるとみられ、長年にわたり地域ぐるみで管理して守り続けてきた農法
【ため池の多面的機能】
- 農業用水の確保
- 生物(ミヤコタナゴなど)の生息・生育の場所の保全
- 地域の憩いの場の提供
- 降雨時には雨水を一時的にためる洪水調節や土砂流出の防止
- 地域の言い伝えや祭りなどの文化・伝統の発祥となっているものもある
「地域ぐるみで管理」とあるが、大谷の場合こんな風に行われていた。
それぞれのため池に「沼預かり」と呼ばれる人がいて放水を担当。水田に水が必要な農家は土地改良区の水利委員会に申し込み、水利委員会から「沼預かり」に放水に指示が出る。
稲作で水を必要とする時期
・5月下旬 代掻き
・5月下旬~6月上旬 田植え
・(7月初め頃「土用干し」といって一時水田から水を抜く)
・8月上旬 稲穂が出る(出穂水)
・(9月上旬[刈り取りの10日前頃]に水田から水を抜く
農業用水路の管理
ため池の水は農業用水路に流し水田に引き込む。年1回用水路整備を住民全員で実施(8月上旬)。
懐かしい未来へ
このように大谷地区は比企の財産を象徴する場所だと言える。それがわたしたちにどんな意味があるのかは読者に考えていただきたいが、わたしはこう思う。 人間は自然と土地を離れては暮らすことができない。地域の大地の歴史と人間の開発の歴史に立脚してこそ持続可能な地域をつくっていけると(次回に続く)