比企のベストプレイス
前回の東松山市大谷についてのレポートで、比企の特徴として比企一族の故郷ということと日本農業遺産にも指定されているため池農法のふたつを挙げた。今回の田黒(ときがわ町)、遠山(嵐山町)、下里(小川町)がまとまったエリアとして紹介されることはあまりない。
行ってみればわかるが、まさに中世に紛れ込んだような不思議な感覚に襲われる静かで心が澄み渡るエリアである。わたしに言わせれば「比企のベストプレイス」である。ぜひ歩いて訪れることをお勧めしたい。車で行かれる方も嵐山渓谷駐車場に車を置いて歩いてまわってみたい。
今回のエリアも比企の別のふたつの特徴を持っている。

中央の尾根上に小倉城跡がある
青い石の文化
田黒の小倉城跡からまわってみよう。この城跡にはいたるところに石垣や石積みが見られる。使われているのは「青い石」、緑泥片岩である。埼玉県や比企地域にはこの青い石を使った板碑があちこちにみられる。小倉城と遠山集落の間には槻川が流れているがすぐ上流に青い石の産地である割谷採掘遺跡(下里・青山板碑石材採掘遺跡群)がある。こちらにも足を伸ばしてみたい。
どうやら小倉城がここに立地したのは、あとで述べる戦国時代の地政学的な位置のほかに、産出した石材を槻川の水運を利用して各地に送ったということもあるようだ。

ではなぜそんなに青い石が珍重されたのだろうか。
12,13世紀の仏教文化の普及に深い関係があるようだ。小川町教育委員会発行の『小川町埋蔵文化財調査報告書 第33集 下里・青山板碑石材採掘遺跡群』によればそのことに以下のように触れている(諸岡 勝「関東の板碑文化」)。
・五輪塔、板碑の仏塔のグループは日本の密教の教えの中で形成されてきた。日本の密教は、民俗的習俗・行事と仏教とが結びついてその中で形作られた
・平安時代の後半から末法思想(仏教の予言に基づく思想で釈迦の教えが衰退して世の中が乱れるという考え)が広く信じられた。それにつれて貴族たちを中心に小供養塔が盛んに行われた
・こうした小供養塔の風潮が背景にあって、また末法思想に伴って阿弥陀如来にすがって西方浄土に往生しようと願う浄土教も発展しつつあった。その中で、大日如来と阿弥陀如来とは同体であるという考え方も強くなり、そこから五輪塔が密教だけでなく浄土教の信者に受け入れられていく道が開け、12世紀から13世紀になると全国各地で多数の石塔がみられるようになった。

「このようにして、板碑の発生の準備が整った。その頃、政治の中心に変化が生じていた。京都とともに、東国の鎌倉がもうひとつの政治の中心になってきたのである。つまり鎌倉幕府の創始である。その幕府を支えたのは、武蔵や相模などの御家人を中心とする東国の武士たちであった。そうした武士たちの中には、たとえば熊谷直実のように、著名な浄土教の信者も多くいた。彼らは、寺を建て、仏像をつくり、石塔を立てた。その石塔にするのに最適な石材のひとつがいわゆる青石、緑泥石片岩であり、それを得られる場所が、彼らの住まう地域の近いところにあったのである。」それが秩父、比企であった。
小倉城をつくったのは小田原北条氏の重臣の遠山氏とも上田氏ともいわれている。彼らもこの青い石の文化の担い手であり普及者でもあったのだろう。
中世を体感する遠山寺
その遠山氏がつくったお寺が遠山寺である。今は無住だが立派な庫裏もあり相当栄えた跡がうかがわれる。武蔵武士がつくったお寺らしく派手さはないが質実剛健なたたずまいで一歩足を踏み入れるや中世そのものという雰囲気である。
いつ来ても人気(ひとけ)がなく静かで、瞑想にふけったり野点をしてみたくなるようなところだ。

山城のネットワーク
比企を特徴づける青い石の文化を先にみたがもうひとつが山城のネットワークである。嵐山町のHPには「比企地方の城郭ネットワーク」というコラムが載せられている(最後の写真)。その説明にはこうある。「嵐山町周辺には中小規模の城郭群が3~5キロメートルの間隔で分布します。これをよく見ると、寄居町の鉢形城と吉見町の松山城を東西に連絡するように並んでいることがわかります。
鉢形城は北条氏邦を城主とする北関東の拠点(支城)であり、松山城は後北条氏の家臣上田氏の率いる松山衆が守りを固めた比企地域の中核的な支城です。その他の城郭群はこの二城の枝城や端城で、後北条氏の支城制の典型的な姿を見ることができます。さらにこの城郭群の分布は、都幾川を遡り上田氏の本拠東秩父村へと結ぶルートと、市野川を遡り鉢形城へとつながるルートの2つのルートが存在したようです。」
実際、小倉城跡からは松山城を望むことができる。小倉城は鎌倉街道上道と山根筋(八王子―鉢形を結び上州に抜ける)という陸路と都幾川―槻川―荒川という水路を押さえる要衝にあった。材木や薪炭,石などの山の産,畑作物などの里山の産と都市の産物が交差するところが比企であることを考えるとき、その立地を生かした地域の未来を描くことができるだろう。

※当初の予定と少し違ってきましたが、次回は下里を紹介し、そのあと比企遠宗の館があったといわれる「三門館」について書く予定です。
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